査読論文の件について最後の
記事です。ここでは、オーソライズと差別化について考えてみたいと思います。
これまでの記事
IPCC 参考文献中に査読されていない論文が
http://d.hatena.ne.jp/onkimo/20100613/1276397609
続きです。IPCC の報告書に
http://d.hatena.ne.jp/onkimo/20100611/1276261080
IPCC の報告書に大量の
http://d.hatena.ne.jp/onkimo/20100609/1276073314
武田邦彦さんがまた
http://d.hatena.ne.jp/onkimo/20100608/1276010507
○オーソライズとは
人間、全ての文献についてきちんと読み込んで妥当性を判断できるわけではありません。人生は短いので。
だから、なにかの見解や意見を見たときに、その妥当性を判断するため、内容以外のところに頼らざるを得ないわけです。それがオーソライズ。
たとえば、ブログに関して言うと、書いている人の名前、肩書きなどから、つまり、その実世界における実績から、ブログに書いてあることの真偽を判断することになる。たとえば、温暖化のことを書いている場合には、肩書きが有名大学とか研究機関の研究者なら読んでいる人は書いてある内容を信用しやすい。私みたいに匿名で書いていると、何かいても信用されないものです。
もちろん、匿名で書いたからと言って、オーソライズが不可能だというわけではありません。たとえば、ankimo さんと言う人が良い記事を書き続けていた場合、読者は読んだ記事を ankimo さんが書いたという事実により信用するわけです。これも一種のオーソライズ。
以上の話はマーケットの馬車馬さんの、次の記事から始まる一連の記事を参考にして書いています。いい加減な私の文章よりもきっちりとしているので、ちょっとテーマは違いますが、ぜひ。
匿名の重み・実名の重み(1) 礼儀という思考停止
http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/1_.html
さて、IPCC レポートも、なんらかの方法でオーソライズされなければなりません。だって、あの分厚い報告書を端から端まで読んで、その参考文献を全部調べるなんて無理でしょう。
とはいえ、オーソライズとはある種個人的なものです。人によって誰を、もしくは何を信用するのかなんて異なるわけですからね*1。
さて、私がなぜ IPCC レポートがオーソライズされていると思うか、別な言い方をすれば、なぜ全部読んでいるわけでもない IPCC レポートを信用するか、ですが、それは、オーソリティ達が書いているからです。つまり、気候学の大家達が書いているから。
ああ、なんてあほっぽい。おまえは批判精神がないのか、と怒られそうな答えですね。
まあ、無条件で信用しているわけではありません。ただ、気候学の大家達が書いているということは、私のたどるであろう思考過程と同じような過程で観測結果や理論的考察がなされているはずで、だから、信用できる可能性が高い、というのが私の考えです。そして、実際、詳しく見ていく必要ができた際に IPCC レポートとその参考文献を読んでみたら、期待にはずれないことがほとんどでした。
もちろんヒマラヤ氷河みたいなことはありますが、IPCC のレポートは、ほぼ信用できると考えています。現在の気候学が出せる最良の回答という観点で。
私に対してではなく、国際社会に対して IPCC レポートをオーソライズするのも、基本的に同じやり方ですね。国連が信用できる研究者を集めて出したレポート、ということです。加えて出版までに参加各国の同意が得られた文章であることも重要。すべての国が、温暖化対策に消極的と思われている中国でさえ認めた、ということですね。
そして、先の記事では頭を使わないで妥当性を判断できる方法だとちょっと批判的に書きましたが、査読論文を元に判断を示した、ということもやはり重要なオーソライズ法です。どこぞの有象無象の戯言ではなく、アカデミズムの洗礼を受けた結果である査読論文がベースになっている。まあ、重要というよりある意味当然というか必須のオーソライズ法だと思います。少なくとも、第一作業部会報告書においてはね。
○査読論文ではない文献の扱い
さて、実際は査読論文ではない文献が含まれていたわけですが、これはどういうことでしょう。
masudako さんに教えていただきましたが、IPCC は査読されていない文献の取り扱いに関して、かなり厳格な基準を定めています。
IPCC 報告書とは -- 国立環境研究所 ココが知りたい温暖化
http://www-cger.nies.go.jp/qa/14/14-2/qa_14-2-j.html
PROCEDURES FOR THE PREPARATION, REVIEW, ACCEPTANCE, ADOPTION,
APPROVAL AND PUBLICATION OF IPCC REPORTS
http://www.ipcc.ch/pdf/ipcc-principles/ipcc-principles-appendix-a.pdf
の ANNEX 2
masudako さんのコメントはこちら
http://d.hatena.ne.jp/onkimo/20100609#c1276140749
先ほど見てきたように、査読論文にはなじまない情報があります。データのソースとか、まとまった解析手法の記述とか。
だから、本来問題にすべきは、査読されていない文献から、査読論文に含まれうる事実なり見解なりが引用されている場合でしょう。
とはいえ、あの膨大な報告書で完璧にこれが運用されていたわけではありません。ヒマラヤ氷河の部分で漏れがあったわけです。でも、完璧ならずともかなり有効に運用されているようには思えます。そうでないとしたら、もっと多数のヒマラヤ氷河のたぐいの問題が見つかっていたことでしょう。
そして、判断の材料は、基本的には査読論文であったということで、間違いないと思います。つまり、査読論文を用いていることによる IPCC レポートのオーソライズ法は揺るいでいないのです。
まあ、そんなことは批判のための批判をする人には通じないのですが。
○"査読論文"による差別化
さて、あまたある温暖化懐疑論の多くは、現在の気候学を理解していないという点で、まあ寝言と変わらないわけです (あ、あなた、懐疑論者ですか?あなたの懐疑論は寝言ではないと思いますよ!)。
とはいえ、寝言とそうでないことを区別できない武田邦彦さんのような方は多い。そして、そのような人の多くが、IPCC に集う科学者を信用していない。寝言の方が信用できる、と言っている。
そのような人に対して、そして、IPCC 側と懐疑論側の意見が同等に聞こえている人たちに対して、どのように IPCC の言うことを差別化できるのか?
それが、査読論文です。
査読される論文を書くというのは良くできた方法です。査読されることによって多くの寝言が排除される。査読を意識して論文を書いていると、書いている本人が寝言だと気付く場合さえある。
もちろん、完璧ではありません。寝言が紛れ込むことも、寝言ではないことを排除することもある。でも、かなり有効に働きます。
実際、IPCC も根拠を基本的に査読論文に求めるように著者達に求めています。文献一つ一つの信用度を見積もる方法として、別な言い方をすれば文献をオーソライズする方法として、査読論文であるか否か、というのは優れています。
一方で、懐疑論側の言うことには寝言が多いので、査読論文になっていることはまれ。
査読論文を用いていると主張することにより、オーソライズに加えて差別化ができるのです。そして、そのことによって査読論文ということばは IPCC のみをオーソライズし、懐疑論をオーソライズしない、ということになるのです。「気候学の権威が書いた」と IPCC 側が言っても、「こっちだって丸山さんとか槌田さんとかすばらしい科学者が言っているんだ」と言われて水掛け論になるんですよね。査読論文だとそれがない。
○"査読論文"による差別化の賞味期限
あらためて、今回の件とそれにまつわることに関して考えてみましょう。
- 一般に査読論文のほうがそうでない文献より信頼できるので、査読ということで結果をオーソライズできた
- 温暖化懐疑論には査読論文が少ない
- 査読論文であるか否かによって懐疑論との差別化ができた
- ただし、査読論文になじまない情報というものがある。IPCC はルールを定めてそのような情報の取り扱いを決めていた。
- しかし、ルールに漏れがあり、ヒマラヤ氷河事件が起きてしまった。
- 今回 noconsensus.org が公表したのは査読されていない文献の割合。これは、問題のある文献の割合と言うよりは、査読論文になじまない情報の割合である。
- しかしながら、これまで査読論文であるか否かによって差別化を行ってきたため、一部の人が喜んで飛びついた
論文が査読されていると言うことに関して、"オーソライズ" と "差別化" という二つの観点から見てきました。
査読というオーソライズ法は不可欠なので、これからも原則として査読論文を参考文献とする、というスタイルは変わらないでしょう。変えてほしくありません。そして、仕方ないときには非査読論文を採用する。ヒマラヤ氷河事件もありますから、より厳重にチェックする*2。
一方で、査読を差別化に使うのは、そろそろ賞味期限が来ているのかな、という気がしています。
何も考えずに IPCC を批判する人たちにある程度有効な方法ではありましたが、一方で査読されていない論文も採用しなければならない状況は IPCC 側にもあるわけです。
また、懐疑論者側だって、査読論文を生み出すシステムを作り上げるのはそんなに難しくないはず。たとえば、おもしろ懐疑論論文満載の "Energy & Environment" に掲載された成果を査読付き論文だと言い張る人はいるのです。懐疑論者達がディプロマミルならぬ査読論文ミルを作り出すのも時間の問題ではないかと私は思っています。
それではどうやって差別化すれば良いのか?難しい問題ですね。
ただ、今回見てきたような形式的な差別化は、いつか破綻します。やはり、一つ一つの懐疑論にたいしてきちんと対処する以上の方法はないのだと思います。面倒くさいけどね。
温暖化研究者の皆様、大変ですが、どうぞがんばってください!応援しています。