佐藤亜紀さんの本を

読みました。こちらのエッセイ集です。


陽気な黙示録―大蟻食の生活と意見‐これまでの意見編 (ちくま文庫)


おもしろかったですね。どうおもしろかったのか書こうとして、でも書いてみると全くおもしろさを伝えられていないので、私の言葉で紹介するのはやめにします。代わりと言っては何ですが、筑摩文庫の裏表紙にある紹介を転記させて頂きましょう。


「賢くあることで大損するくらいなら、我々は愚かなままでいるべきなのだ」(『我々は愚民である』)、「アメリカの大統領選、あれくらい全世界に迷惑を及ぼすものはない」(『アメリカに帝政を!』)…戦争、9・11、メディア、論客、文学から現代美術、美食、近所の犬についてまで、辛口批評で知られる著者が本音で語り尽くしたエッセイ集。文句のあるやつは前へ出ろ!単行本未収録作多数を加えた増補版。


まあ、この文章でも本のおもしろさを伝えることができているとも思えませんが、私にはこれよりうまくは書けなかった。


佐藤亜紀さんは作家で、1991 年「バルタザールの遍歴」という小説で日本ファンタジーノベルズ大賞を受賞しています。でも、私は彼女の小説を読んだことはなくて、早稲田大学での講義をまとめた、「小説のストラテジー」という本を読んだことがあるだけでした。


小説のストラテジー


こちらもおもしろかった。本当の「小説好き」ってこういう本の読み方をするのかな、と思わせる本でした。


他の本も読んでみよ。なお、本については好き嫌いがあると思いますので、かならずしもおすすめはしません。あと、おもしろいと思うことと、同意することとは違います。


さて、ここで取り上げるからには温暖化に無理矢理結びつけます。


この本に、「正論は常に正しい」というタイトルのエッセイがありました。1994 年に書かれています。ずいぶん前ですが、内容は今でも当てはまると思うので。


書き出しがいきなり

どうも最近、正論の分が悪いような気がする。

です。続くパラグラフが、

まあ、正論をぶたれると意味もなく腹の立ってくるものではある。なぜかは知らないがぶつ奴は必ず格好が悪い。誰も反論できないので何となく多数派を占めることになる(「そりゃまあ、戦争はいけないよね」)のがまた不愉快だ。しかし、断固として主張しておきたいのだが、正論はたいていの場合、確かに正しいのだ。

となっています。ただ、エッセイの中では、正論を正しいと述べつつも、そのあとに読者の利害と比較すると多くの場合一致するはずだ、と正しさを御利益をからめて述べてみたり、まあ、一筋縄ではいかないわけです。


また、正論を述べる人が如何に格好悪いかということを例を挙げて述べているわけですが、原発反対やフェミニズムと並べて、環境保護運動も取り上げられています。"妙な選良意識に凝り固まった不愉快な奴らで、概ねにおいてどの程度実効があるのか怪しいようなことに嬉々としていそしむ傾向がある" と、環境保護運動家が格好悪いとけなす。基本的には、正論は正しい、だから環境保護運動家も正しい、と述べられているのではありますが。


そして、エッセイの本題に入ります。

さて、正論中の正論の話になる。


「ひとりの命を救うものが全世界を救う」なる台詞を聞いて失笑しないものがいるだろうか。いやあ、これだけ聞いたら普通は涙を零して笑い転げること間違いなしである。

しかし、スティーブン・スピルバーグが「シンドラーのリスト*1 でこの一言を感動的な言葉として響かせてしまった、と。


ナチスによるユダヤ人虐殺を扱ったこの作品のような映画では、えてして犠牲者達が個々の人間として映らなくなるが、三時間強のの尺の長さと、スピルバーグが「激突」以来培ってきた娯楽映画のテクニックが、個々の人間の存在を、観客の記憶に刻み込んで進んでいく。スピルバーグの、そして、ハリウッドの"話術"、恐るべし、芸術性とは何の関わりもないプロパガンダのテクニックであるが、正論を恥ずかしさを感じさせずに訴えることに成功している、この映画のすごさを褒めています。


読んで温暖化論のことについて考えました。


このエッセイが書かれてから 15 年くらい経ちますが、今でも当時と同様、正論を吐くのは恥ずかしいなと思います。私も onkimo というウェブ上の名前でなら正論を吐いても平気なのですが、実際の自分が言うと、顔から火が出るような恥ずかしさを感じそう。ええ、私、かなり自意識過剰な人間です。


そして、今、地球温暖化論、そして、CO2 排出削減は正論として分類されているのだろうな、と言う気がします。


もちろん、正論を正論として堂々と語ることができる人たちはいて、そこは問題ありません *2 。そして、一般の人たち、まあ、善男善女として分類される世の中の大多数は、その正論を受け入れて、素直に CO2 削減に協力しようと考えるわけです。


でも、温暖化問題に一言言ってやろう、と考えている人たちは、いわゆる善男善女じゃないわけで。で、そのような人たちが、ブログをはじめとしたウェブ上で、温暖化論と温暖化懐疑論に突っ込んだ発言しているわけで。


ここ数年、温暖化について、CO2 削減について語るのが、格好悪い時代になってきていると思います。なんの工夫もなくこれらのことについて語ると、すでに正論として手垢が付いてしまっているだけに、語る人は"うざったいと思われて嫌われがちな正論の皆さん" *3 のひとりになってしまう。


まあ、個人的には、地球温暖化、そして CO2 削減が「正論」の位置を確保したこと自体がすばらしいと思っています。それは、これまで努力してきた人たちが築き上げた成果だと認識しています。


一方で、これからは、正論を語る「格好悪さ」を自覚して語る必要があるのだろうなと、onkimo は考えています。


いえ、善男善女に語りかける場合にはそんな必要はないわけです。そして、マスメディアは基本的には善男善女が対象のメディア。新聞やテレビなどを通して意見を述べる場合には、格好悪さを強く意識する必要はないでしょう。


ただ、私のように、ブログの中で発言したりする際には、そんなことを思うわけです。ブログ記事を読むのは、善男善女ではない人の割合が高いですからね。


あ、私は善男善女ですが。


さて、正論を言うのは格好が悪いから温暖化論の発言を慎むべきだ、なんて思いません。もうちょっと語り残していることがあるので、次回に続きます。

*1:asin:B00005R22X 日本で公開されたのは 1994 年 2 月。たしか、1993 年のアカデミー賞を、スピルバーグにもたらしたはず。私は映画館で見た。

*2:一つ言っておくと、格好悪いからと言って正論を語れない自意識過剰な人間は、出世できないと思います。故に onkimo は出世できない。

*3:陽気な黙示録」からの引用